批評再生塾第三期最終講表-2

 さて、それでは続きを書いていこうと思う

批評再生塾第三期最終講表-1で、渋革氏と太田氏の論考に「身体性を取り戻す」という共通点があるのではないか、それはポストモダン後の空虚な生に対する解答を見出そうとしている様に思えたのだ。また、宗教というのは「感情と身体性」について抽象的に取り扱うことで普遍性を獲得しているのではないか、両論がある種の普遍性で共通している様に思えるのは、この普遍性へと通じる部分があるからではないだろうかということであった。

 

 渋革氏は、平田オリザ氏の「ニュートラルな身体」からチェルフィッチュ岡田利規、山縣太一とりわけ、「チェルフィッチュ+山縣太一」を用いて、共同体論へと展開していくのだが、私はその途中で記述されている「【4-2】チェルフィッチュ岡田利規」の章の次の一文に目が留まった

 

その「ニュートラルな身体」をも「無意識」が露出してくるフィールドに仕立て上げたのだった。

 

どういう事だろうか、岡田利規氏のインタビューを参照しながら渋革氏はこれを説明している

 

[僕はよく、自分のスタイルにはブレヒト平田オリザの影響が反映されているとインタビューで答える。ふたつを混ぜたらこうなったんだと言うこともある。せりふを発することに張り付きがちな役者の意識をそこからはがして無為なしぐさにとりかからせる、という平田さんのやり方を発展させて、意識を身振りからもはがそうとしてみた、そしたらこうなった、と説明することもあ

る。]

 語られているのは「意識の分散」の方法だ。「しぐさ」と「言葉」は「イメージ」から生成されてくると岡田は言うこともあるが、現代口語演劇の場合は、〈外部なき群れ〉に巻き込まれないよう、そこから身体感覚を引き剥がすことが目指されていた。「意識の分散」による「無意識の露出」は「ニュートラルな身体」によって固定されて混乱が起こらないようになっていた。ところが、チェルフィッチュの場合は、その「ニュートラルな身体」をも「無意識」が露出してくるフィールドに仕立て上げたのだった。

 

 外部なき群については是非渋川氏の本文をお読み頂きたいが、渋革氏によると平田オリザの現代口語演劇では、「意識の分散」という方法により「無意識を露出」させると解釈でき、更にチェルフィッチュがその方法を活用し、無意識を露出させるだけでなく、感情に引きづられないニュートラルな身体を無意識なうちに行われるようになると言ってるのではないか。【「ニュートラルな身体」をも「無意識」が露出してくるフィールドに仕立て上げる】この一文をみた時私は、石田英敬氏の一般文字学は可能かで述べられていた次の言葉を想起した【自我は無意識の層にこなければならない】一般文字学の講義では、石田氏はフロイトの解釈を今のテクノロジーや、自然科学を用いて再解釈した方がフロイトをより正確に理解でき、また昨今AIの発達により無意識下の欲動をも利用されかねない、例えば「あなたにおすすめの商品はこちらです」とうような広告がさらに高度化し、ラーメン屋の前を通ったからラーメンを食べたい様な気がしただけなのに、むしろそのメカニズムを利用して、ラーメンが食べるべきものと思い込まされるような広告の誕生。その状況に対し、自我を無意識化の層に置く事で対処しうるという内容だったと筆者は認識している。*1

ニュートラルな身体」を「無意識」が露出してくるフィールドに仕立て上げる事の効果は、石田氏が考える事とも接続できるのではないだろうか。また、食べるに値するものを自覚する状態の獲得もこの石田氏の話と接続できるのではないかと考えている。

 

 少し寄り道をしたが、渋革氏の共同体論について話を戻そう。渋革氏の論文を抜粋しながらその流れを追っていこう。

まず、山縣太一氏が呼びかけ行われた『ワークショップ』に参加して次の様な感覚を得たようだ

 

共鳴=感応する身体のレベルにおいては、彼が〈私〉と〈他者〉が区別されないゲル化した動物になっているということだ。ここでは〈群生する動物〉的な身体のレベルと、社会的承認のもとで主体化された〈私〉のレベルの明らかな解離がある。ところが、身振りの感応だけを頼りにコミュニケーションをはかる動物は、そこに縮減していく他者の身振りの重なりによって、逆説的に独異な〈私〉を出現させているように見えるのである。

 つまり、〈群生する他者〉がすなわち独異な〈私〉になる。これは一体どういうことだろう? そもそもなぜそのような〈私〉がここに露呈してくるのだろうか?

 

 恐らくこの疑問の提示についての回答は、<身振り>ということになるのだと思う。

次に、身振りについての記述を参照しよう。 

 

〈身振り〉が遂行されることで自身が属している共同体の歴史的・文化的な価値観は「内面化」=「身体化」されてくるのであり、逆に〈身振り〉することで自身の属している共同体が再生産されもする(例えば無印良品で買い物をするといった消費行為もここでは文化的再生産である)。つまり〈身振り〉と共同体は相互フィードバックループする関係を持つ。

 

 この<身振り>が次々に相互に影響を受けあう即時性と、『ワークショップ』という場所の共有が恐らく渋革氏が考える共同体論のキーになっているのではないか。また、渋革氏はこの共同体の可能性は、オウム的なものになる危うさをもっている事も理解しており、その差異も<身振り>に求めている。

 

『ワークショップ』では、多分に集合的なイメージを参加者が分有したりしなかったりすることで、「感応=共振」することで〈みんな〉に溶け込んでいってしまう可能性が高くなる。ある意味では、大澤真幸が記したようなオウム真理教のコミュニケーションに近くなっていくということだ。

 では、そのあいだの違いは何なのか? 「感応=共振」に〈身振り〉が介入しているかどうか。その違いである。つまり逆に言えば、オウム的なコミュニケーションは〈身振りの全滅〉を意味している。シャクティ・パッドはその最たるものだろう。〈身振り〉が全滅するとは、〈私〉が〈私〉ではないものになることの不可能性を意味している。私たちは、〈身振り〉してみることで、あるいは我が身に生じた〈身振り〉の感覚に敏感になることで、無数の方向から「造形」されていく粘土のように、この世界との関わりを組織することが出来るのではないか。

 そのイメージは、まさに『ワークショップ』にて生じてきた「群生する他者」が〈私〉に浸透することで、〈私〉がグルーヴのなかで可塑的に変化していく、それに支えられつつも、またほかのグルーヴとの感応を試みていつの間にか変化して、それがまた他のグルーヴと……、そうした世界感覚。いわば、〈身振り〉してみることで、ゆるくつながって群生していく。そういう共同性のあり方である。

 

 筆者の記憶が正しければ、ゲンロンカフェを創設した際の東浩紀氏の発言で、顔と顔を突き合わせる場所の、相手の表情を見ながら会話したする事により得られる情報量の多さに重要性を考えたという旨の発言があったかと思う。

 この点において、渋革氏と東氏の考えは一致しているように思える。しかし、異なる点もまた伺えるのだ、それは「継続性」という事だ。

ゲンロンカフェには具体的に継続していける場所があるのに対し、ワークショップには継続する場所がないのではないか、例えば音楽ライブのように、曲の演奏中は観客とも会場とも一体になる共同性が生まれるが、ライブが終了する際、もっと言えば曲が終了する度にその共同体は一度分断される。渋革氏の言っている共同体はこのライブのような一時的な共同体に近いのではないだろうか。

 

 渋革氏は、「身体性を取り戻す」というところから、「共同体」の新たな可能性へと話しが展開していった。太田氏は身体性を取り戻すため「病」への話と展開していく。

 太田氏の「病」に対しては、実は次の文に2つのタイプの病が混在しているのではないかと筆者は感じた。

 

アートは時に、我々が忘れていたこと、抑圧していたものを暴露します。かつて世界を震撼させた9.11同時多発テロを「アートの最大の作品」と呼んで顰蹙を買った人もいましたが、まさにこの意味において、身体にとって病とは最大のアートでもあります。ゲームとしての「健康」は、アートとしての病によってその様相を変えます。解離した自己の身体と病める身体は、優れたアートによってはじめてぴたりと重なり合うのです。

 若き日の御冷ミァハが自殺を試みたのは、ひとつには病を知らない生命主義社会で見失われた身体の輪郭を、痛みによって捉えなおすためでした。もっとありふれた例でいえば、生活習慣病を患いながらもどこか他人事のようだった患者は、苦痛に悶え救急車で運ばれながら、はじめてその病を自己の身体のうちに感じるようになります。そしてひとたびこうして病める身体に触れた者は、そのバーチャルな身体の輪郭をたしかに想像できるようになるのです。

 

 一見すると、アートとしての病も自己の身体を痛みによって再認識する病(生活習慣病によって身体を再認識する)と同じもののように見える。確かに両方ともオートマ化されている部分を再認識するという機能はあるように思えるが、ここで用いられているアートとしての病は身体を再認識するだけに留まらず、オートマ化されているそのもののルールが書き替えられてしまうのではないか。太田氏の論考は食べるという事に注目して進められているため、最終講評会に置いて、東京グール(食人衝動をもってしまう新たな人類がモチーフの作品)について触れられていた。まさに、よく食べるに値する対象が人間だった場合、オートマ化されたルールそのものが書き換えられてしまう力が生まれる。東京グールは、主人公がその食人衝動に駆られてしまう部分と倫理感に葛藤するシーンが美しく描写される。アートとしての病とは、よく食べるに値する対象によっては、オートマ化されたルールそのもをも書き換えてしまうものであり、そこに美しさを孕んでしまう事もありえるという事なのではないだろうか。

 

しかしなにも苦痛を伴わなくたって、我々の身体には日々さまざまな感覚が生じています。それらは知らず知らずのうちに行為形成の一因になっていたり、あるいは見落とされていたりします。この日々生み出され続けている小さいアートによって、我々の二つの身体はいつもわずかばかり触れ合っているのではなかろうか、といつも思います——ただし、そのささやかなアートに、適切な批評の眼差しが向けられている限りにおいては、ですが。

 

 この太田氏の論文の最後を締める一文を見る限りにおいては、最終講評でも触れられていたように、太田氏は批評を身体を自覚しるための機能、よりよい健康を得るために病も活用しましょう、として取り扱おうとしているように思えるが、今後太田氏がアートとしの病や批評をどのように展開していくのかが大変楽しみだ。

 

 二回にまたいで、渋川氏太田氏の批評再生塾の最終課題の論文をみてきた。渋革氏も太田氏も共通の問題意識を持っているように思えたし、それがそれぞれ演劇と内科医との立場の違いによって表現方法が変わっているところが大変面白く思えた。

 渋革氏が今後共同体論をどのように発展させていくのか、継続性についてどのように考えているのかが大変たのしみである。また、太田氏の國分功一郎氏の暇と退屈の倫理学から中動態への流れを「よくかんで食べる」という行為から「食べるとはなにか」という行為生成だという解釈が大変刺激的であった。

 

 なんにせよ、僭越ながらブログ2回分にも渡り感想を書かせて頂いた訳だが、そのように思う熱量を与えてくれた事に感謝したい。最後まで読んでくれた方がいらしたら、お付きあい頂きまして本当にありがとうございました。

折角始めたので、またちらほら書いて行きたい。GW中に四月の人魚展を見に行った感想とか次回かけたらいいなと思う。



*1 一般文字学は可能かは、ゲンロンで3回に渡り石田氏により行われた講義だが、またま曖昧な記憶なまま書いてしまったので、どうもすみません。関連する書籍を現在執筆中だと伺っているので早く手にできる日が楽しみであります。




批評再生塾第三期最終講表-1

 批評再生塾第三期の最終講表に残った6作品と、最終公表の動画を拝見して、思わずブログを開設してしまった。

 

 特に私の関心として、やはり総代₍渋革マロン氏₎と副総代₍太田充胤氏₎の論考が非常に面白く私も何か書きたいという思いに駆られてしまったのだ。

何か書きたいと思った理由には、二人の作品には共通している意識があるのではないかと思ったからだ。それは、両論考とも「身体性を取り戻す」という点において共通しているのではないか。

 

 渋革氏は大澤聡氏の著書「90年代論」を頼りに、90年代の特徴として身体性の失調をあげている。それを出発点として、身体性を取り戻すための手続きを演劇のワークショップを用いながら展開していき、そこからさらに新たな共同体論を模索していこうと試みているのだはないだろうか。一方太田氏は、伊藤計劃の全てがオートマ化された(体に害のある嗜好品を接種できない)徹底的に管理された健康が成り立つ社会をディストピア的に描いた作品「ハーモニー」を題材に、健康とはなにかという問い立てを行い、それに対して國分功一郎氏の著書を用い、食べるに値する食品を自分で選ぶようになる必要性を説いている。それには、自分の中のオートマ化された身体を自覚する必要があり、時に病はそのオートマ化された身体を自覚するためにも必要なのではないかと展開されているように思える。

 

もう少し具体的に、二人の論考を参照していきたい

 

 渋革氏は90年代の身体性の失調がオウム真理教が隆盛した要因の一つではないかと大澤真幸氏を引用しながら次のように述べている。

 

例えば、大澤は「オウム真理教」に入信する動機を示すパターンとして「気晴らしに外出しても、友人と遊んでも、楽しいのは一瞬で、またその後の虚しさが私を襲う。/どうして、他の人が楽しいと思ってやっていることが、私にとってこんなにむなしいんだろう…。」

という「生の意味の空虚」を例示している。どうにも自らが社会の一員であることにリアリティをもてないどころか、なにをやっても現実に確かな実感を持てない。

 

 この生に対する虚無感の反動として、過剰に身体性を欲望しようとした結果がオウムの隆盛に関わっているのだはないだろうか。オウムという教団は、身体感覚を取り戻す修行として、ヨーガを用いたり、麻原の身体の一部、毛髪などを飲み込むイニシエーションを行う事で、麻原と一体化しようとした。しかし、それは周知の様にあのような結果を招いてしまった。だが空虚な生に対する問題はまだ残っている、それに対しての乗り越えを試みる者として次に平田オリザ氏が参照される。

 平田オリザ氏の「役者は交換可能な存在である」「ロボットと俳優は置き換え可能」といった趣旨の発言から、「内面廃棄論者」にみえてしまう事があるが、身体感覚を自覚し「自己を見つめ直す」作業のシュミレーションを試みていると述べている。

 どういう事だろうか、次の文を頼りに捉えていこう



なぜ平田が「内面」ぬきの「現代口語劇場」を構成していったかは一目瞭然だろう。身体感覚を取り戻すことは必要だが、かといってそこに没入して「みんな」とつながるのではなく、そこを切り離すことによってはじめて平田が言うような「近代演劇の到達点を示す」ことも可能になる。共同体と対峙する「内面」を仮構できない日本的主体に可能な「近代」をシュミレーションすること。それが、「現代口語演劇」のプロジェクトである。

したがって、情緒共同体へとつながる路になる「身体感覚」は厳密にコントロールされねばならない。つまり、身体感覚に同一化してしまうのではなく、常にそれから意識を引きはがし、「ニュートラルな身体」(演技と演出)を維持せねばならない。

 

 渋革氏は、内野儀氏の情緒共同体を参照にして本文ではより詳しく論を構成しているが、自分のいかりや悲しみ(泣ける)という感情を頼りに身体性を取り戻そうとすると、結局は麻原と同一化して自分の身体性を取り戻そうとしてしまう、その空虚な生を乗り越えようとしたものと同じ方法になってしまうということではないか、そうではなく、共同体を超越して主体化する「自立した個人」という近代的主体が成立することが、オウム的な「空虚な生」に対する乗り越えとは別の乗り越え方ということではないだろうか。

 渋革氏は、ここから「チェルフィッチュ+山縣太一」をヒントに新たな共同体論へと話しは展開していくのだが、ここで一度太田氏の論考へ言及していきたい。なぜならば、冒頭でも述べた二人の共通点となるワードがここで登場してくるからである、それは「ニュートラルな身体」である。

 太田氏はオートマ化された身体を自覚し、「自分で食べるに値する食品を選ぶ」事の重要性について説いている。この「オートマ化された身体を自覚」している状態が「ニュートラルな身体」と共通している身体の状態なのではないだろうか。

 

 オートマ化された身体を自覚するということはどういことだろうか、次の太田氏の論考の中で國分功一郎大澤真幸の対談を用いてる箇所に詳しくみてみよう。

 

國分自身がそう言ったわけではありませんが、こうして「食べる」という例えで並べてみると國分の転回がよくわかります。『暇倫』が「味わって食べる」ことについての本だとしたら、『中動態』は「食べるものを選ぶ」ことについての本だと言ってよいでしょう。そしてこの例えにおいて大胆に要約すれば、國分がスピノザを紐解きながらたどり着いた処方箋とは、「食べる」まえに「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか? たまたまラーメン屋のまえを通ったから食べたいような気がしただけじゃないのか? 俺はラーメンを食べさせられているんじゃないのか?」という具合に立ち止まってよく考えてみる、というものでした。
 哲学者の大澤真幸は國分との対談のなかで、このような中動的な行為生成の主体を楕円に例えています。楕円のふたつの中心のうち、ひとつは私、そしてもうひとつの中心は、他者というわけではないが私とも言い切れないいわば「他者以前の他者」だと大澤は言います。そして、たとえば我々が「書く」とき、「書こうとしている」だけでも「書かされている」だけでもだめで、「書かされてる感と書こうとしている感が見事にブレンドされたときに最高のものになる」ということが確かに起こっています。主体は二人に分裂し、そして二人の相互作用によって行為するというわけです。「これを食べたい」私と「これを食べるべき」もう一人の私、「食べる」私と「食べさせられている」もう一人の私。二人の「私」は同じ楕円の内にあり、これをすりあわせるようにして、我々は「食べるものを選ぶ」のです。

 

 「オートマ化された身体を自覚」している状態とは、「他者以前の他者」を自覚すること、ラーメンが食べたいと思ったのは、ラーメン屋の前を通ったから食べたいような気がしただけではないかと疑うというということだ。ここで少し、筆者が中動態を読んでいた時に近い用法をしているのではないかと感じた、パーリー語を補助線に用いてみたい。

 パーリー語とは、初期仏教で用いられ、お釈迦様が当時使っていた語源に近い言語のようだが、そのパーリー語は怒りの様な感情を表現する際、「怒りが私に訪れる」というように少し外部から感情が沸き起こるような使用方法をする。これは、中動態で語られていた用法に似ているのではないか、また彼らの目指す教えの中に中道というものがあるのも字は違えど共通することがあるように感じられる。

 その初期仏教によると、お釈迦様は自分の事を究極の医者と称していたようだ。また、初期仏教にも悟りを開くために瞑想を行うのだが、自立神経の中で唯一操作できる肺の機能、呼吸を整える事で自立神経を正常に保つという訓練の一環でもあるようだ。そのために、身体を良く観察するそうだ、例えば、歩く際に右足を上げる、太ももがあがる、踵を地面につける次に左足というように、いつもなら自然に行っている(オート化された事)をわざと脳で自覚しながら動かしていくことで呼吸を整えたり、落ち着く作用をもたらすセロトニンが分泌されるのを促す。*1

 

 この補助線を用いると「ニュートラルな身体」と「オートマ化された身体を自覚」している状態が「身体性を取り戻す」という共通点をもっているという事がより明確になったのではないだろうか。

 ニュートラルな身体とは、身体感覚に同一化してしまうのではなく、常にそれから意識を引きはがしている状態の事であり、身体感覚に同一化するというのは、自分の感情に引きずられることである。「オートマ化された身体を自覚」は、他者以前の他者から訪れる感情を観察する事であり、それに対応する為に身体の観察を行う。両者とも、自分の感情を認識するために、自分の身体を良く観察するという点において一致しているように思えるのだ。

 最終公表回の際に、第三期はある種普遍性をもった事に対して批評が行われたのではないかという旨の発言があったように思われるが、それが「感情と身体性」といことのように感じられた、またこの「感情と身体性」について抽象概念として普遍的に取り扱われているのが、宗教なのではないだろうか、であるからして、それを用いる事は一種の危うさもそこ内包しているではないだろうか。

 

 ここまでで、既に4000字程度の分量になってしまった、ここから先のお二方の論考の中で更に筆者が気になる点をざっくりとだけ触れさせて頂きたいと思ったのだが、そろそろ衣替えもしなければならないので、次回にしたいと思う。

 

*1初期仏教に関しては「仏教と脳科学」を参考にした、しかし、本来なら再読し精査するべきだが、読了してから大分時が経ってからの記述なので乱暴に引用されている事を大目にみて頂きたい。ごめんなさい