批評再生塾第三期最終講表-1

 批評再生塾第三期の最終講表に残った6作品と、最終公表の動画を拝見して、思わずブログを開設してしまった。

 

 特に私の関心として、やはり総代₍渋革マロン氏₎と副総代₍太田充胤氏₎の論考が非常に面白く私も何か書きたいという思いに駆られてしまったのだ。

何か書きたいと思った理由には、二人の作品には共通している意識があるのではないかと思ったからだ。それは、両論考とも「身体性を取り戻す」という点において共通しているのではないか。

 

 渋革氏は大澤聡氏の著書「90年代論」を頼りに、90年代の特徴として身体性の失調をあげている。それを出発点として、身体性を取り戻すための手続きを演劇のワークショップを用いながら展開していき、そこからさらに新たな共同体論を模索していこうと試みているのだはないだろうか。一方太田氏は、伊藤計劃の全てがオートマ化された(体に害のある嗜好品を接種できない)徹底的に管理された健康が成り立つ社会をディストピア的に描いた作品「ハーモニー」を題材に、健康とはなにかという問い立てを行い、それに対して國分功一郎氏の著書を用い、食べるに値する食品を自分で選ぶようになる必要性を説いている。それには、自分の中のオートマ化された身体を自覚する必要があり、時に病はそのオートマ化された身体を自覚するためにも必要なのではないかと展開されているように思える。

 

もう少し具体的に、二人の論考を参照していきたい

 

 渋革氏は90年代の身体性の失調がオウム真理教が隆盛した要因の一つではないかと大澤真幸氏を引用しながら次のように述べている。

 

例えば、大澤は「オウム真理教」に入信する動機を示すパターンとして「気晴らしに外出しても、友人と遊んでも、楽しいのは一瞬で、またその後の虚しさが私を襲う。/どうして、他の人が楽しいと思ってやっていることが、私にとってこんなにむなしいんだろう…。」

という「生の意味の空虚」を例示している。どうにも自らが社会の一員であることにリアリティをもてないどころか、なにをやっても現実に確かな実感を持てない。

 

 この生に対する虚無感の反動として、過剰に身体性を欲望しようとした結果がオウムの隆盛に関わっているのだはないだろうか。オウムという教団は、身体感覚を取り戻す修行として、ヨーガを用いたり、麻原の身体の一部、毛髪などを飲み込むイニシエーションを行う事で、麻原と一体化しようとした。しかし、それは周知の様にあのような結果を招いてしまった。だが空虚な生に対する問題はまだ残っている、それに対しての乗り越えを試みる者として次に平田オリザ氏が参照される。

 平田オリザ氏の「役者は交換可能な存在である」「ロボットと俳優は置き換え可能」といった趣旨の発言から、「内面廃棄論者」にみえてしまう事があるが、身体感覚を自覚し「自己を見つめ直す」作業のシュミレーションを試みていると述べている。

 どういう事だろうか、次の文を頼りに捉えていこう



なぜ平田が「内面」ぬきの「現代口語劇場」を構成していったかは一目瞭然だろう。身体感覚を取り戻すことは必要だが、かといってそこに没入して「みんな」とつながるのではなく、そこを切り離すことによってはじめて平田が言うような「近代演劇の到達点を示す」ことも可能になる。共同体と対峙する「内面」を仮構できない日本的主体に可能な「近代」をシュミレーションすること。それが、「現代口語演劇」のプロジェクトである。

したがって、情緒共同体へとつながる路になる「身体感覚」は厳密にコントロールされねばならない。つまり、身体感覚に同一化してしまうのではなく、常にそれから意識を引きはがし、「ニュートラルな身体」(演技と演出)を維持せねばならない。

 

 渋革氏は、内野儀氏の情緒共同体を参照にして本文ではより詳しく論を構成しているが、自分のいかりや悲しみ(泣ける)という感情を頼りに身体性を取り戻そうとすると、結局は麻原と同一化して自分の身体性を取り戻そうとしてしまう、その空虚な生を乗り越えようとしたものと同じ方法になってしまうということではないか、そうではなく、共同体を超越して主体化する「自立した個人」という近代的主体が成立することが、オウム的な「空虚な生」に対する乗り越えとは別の乗り越え方ということではないだろうか。

 渋革氏は、ここから「チェルフィッチュ+山縣太一」をヒントに新たな共同体論へと話しは展開していくのだが、ここで一度太田氏の論考へ言及していきたい。なぜならば、冒頭でも述べた二人の共通点となるワードがここで登場してくるからである、それは「ニュートラルな身体」である。

 太田氏はオートマ化された身体を自覚し、「自分で食べるに値する食品を選ぶ」事の重要性について説いている。この「オートマ化された身体を自覚」している状態が「ニュートラルな身体」と共通している身体の状態なのではないだろうか。

 

 オートマ化された身体を自覚するということはどういことだろうか、次の太田氏の論考の中で國分功一郎大澤真幸の対談を用いてる箇所に詳しくみてみよう。

 

國分自身がそう言ったわけではありませんが、こうして「食べる」という例えで並べてみると國分の転回がよくわかります。『暇倫』が「味わって食べる」ことについての本だとしたら、『中動態』は「食べるものを選ぶ」ことについての本だと言ってよいでしょう。そしてこの例えにおいて大胆に要約すれば、國分がスピノザを紐解きながらたどり着いた処方箋とは、「食べる」まえに「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか? たまたまラーメン屋のまえを通ったから食べたいような気がしただけじゃないのか? 俺はラーメンを食べさせられているんじゃないのか?」という具合に立ち止まってよく考えてみる、というものでした。
 哲学者の大澤真幸は國分との対談のなかで、このような中動的な行為生成の主体を楕円に例えています。楕円のふたつの中心のうち、ひとつは私、そしてもうひとつの中心は、他者というわけではないが私とも言い切れないいわば「他者以前の他者」だと大澤は言います。そして、たとえば我々が「書く」とき、「書こうとしている」だけでも「書かされている」だけでもだめで、「書かされてる感と書こうとしている感が見事にブレンドされたときに最高のものになる」ということが確かに起こっています。主体は二人に分裂し、そして二人の相互作用によって行為するというわけです。「これを食べたい」私と「これを食べるべき」もう一人の私、「食べる」私と「食べさせられている」もう一人の私。二人の「私」は同じ楕円の内にあり、これをすりあわせるようにして、我々は「食べるものを選ぶ」のです。

 

 「オートマ化された身体を自覚」している状態とは、「他者以前の他者」を自覚すること、ラーメンが食べたいと思ったのは、ラーメン屋の前を通ったから食べたいような気がしただけではないかと疑うというということだ。ここで少し、筆者が中動態を読んでいた時に近い用法をしているのではないかと感じた、パーリー語を補助線に用いてみたい。

 パーリー語とは、初期仏教で用いられ、お釈迦様が当時使っていた語源に近い言語のようだが、そのパーリー語は怒りの様な感情を表現する際、「怒りが私に訪れる」というように少し外部から感情が沸き起こるような使用方法をする。これは、中動態で語られていた用法に似ているのではないか、また彼らの目指す教えの中に中道というものがあるのも字は違えど共通することがあるように感じられる。

 その初期仏教によると、お釈迦様は自分の事を究極の医者と称していたようだ。また、初期仏教にも悟りを開くために瞑想を行うのだが、自立神経の中で唯一操作できる肺の機能、呼吸を整える事で自立神経を正常に保つという訓練の一環でもあるようだ。そのために、身体を良く観察するそうだ、例えば、歩く際に右足を上げる、太ももがあがる、踵を地面につける次に左足というように、いつもなら自然に行っている(オート化された事)をわざと脳で自覚しながら動かしていくことで呼吸を整えたり、落ち着く作用をもたらすセロトニンが分泌されるのを促す。*1

 

 この補助線を用いると「ニュートラルな身体」と「オートマ化された身体を自覚」している状態が「身体性を取り戻す」という共通点をもっているという事がより明確になったのではないだろうか。

 ニュートラルな身体とは、身体感覚に同一化してしまうのではなく、常にそれから意識を引きはがしている状態の事であり、身体感覚に同一化するというのは、自分の感情に引きずられることである。「オートマ化された身体を自覚」は、他者以前の他者から訪れる感情を観察する事であり、それに対応する為に身体の観察を行う。両者とも、自分の感情を認識するために、自分の身体を良く観察するという点において一致しているように思えるのだ。

 最終公表回の際に、第三期はある種普遍性をもった事に対して批評が行われたのではないかという旨の発言があったように思われるが、それが「感情と身体性」といことのように感じられた、またこの「感情と身体性」について抽象概念として普遍的に取り扱われているのが、宗教なのではないだろうか、であるからして、それを用いる事は一種の危うさもそこ内包しているではないだろうか。

 

 ここまでで、既に4000字程度の分量になってしまった、ここから先のお二方の論考の中で更に筆者が気になる点をざっくりとだけ触れさせて頂きたいと思ったのだが、そろそろ衣替えもしなければならないので、次回にしたいと思う。

 

*1初期仏教に関しては「仏教と脳科学」を参考にした、しかし、本来なら再読し精査するべきだが、読了してから大分時が経ってからの記述なので乱暴に引用されている事を大目にみて頂きたい。ごめんなさい